見落とされがちな鎌倉(とくに後北条氏の故地)

もう一つの鎌倉

現在の鎌倉市は、昔の鎌倉町、腰越津村(腰越町)、小坂村・玉縄村(やがてこれら二つの村は合併して大船町)、深沢村が合併してできました。

鎌倉七口の一つ「大仏切通」

いわゆる「鎌倉七口」の内側(海と三方を小山に囲まれたエリア)は「旧鎌倉」と呼ばれ、同じ鎌倉市域にあってこのエリアだけはほかと雰囲気が違っています。北鎌倉だけは切通の外側に位置しているにもかかわらず、その雰囲気は旧鎌倉と共通しているようですが、それも円覚寺のある辺りまでで、そこから大船方面へ歩を進めていくと、やはりその雰囲気も普遍的な旧鎌倉外のそれに同化していくようです。

観光客の多くは旧鎌倉及び北鎌倉に参集し、たとえば北鎌倉駅を降りる観光客のほとんどは明月院や建長寺のある方向へと歩いていき、その反対側、つまり大船方向へ歩いて行かれる方は少ないのであります。

「鎌倉」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべるでしょうか?

源頼朝や日蓮などの人物、鶴岡八幡宮や長谷寺等の社寺、大仏、ハイキング、桜や紅葉、江ノ電、海あるいはグルメ・・・。





これらの事物が観光客を惹きつけるのであり、それらは大体いわゆる旧鎌倉や北鎌倉にあるので、だから必然的にそこへ観光客が参集するのでありましょう。

では、北鎌倉を除く切通の外側のエリアには観光客を惹きつけるに値する事物・観光スポットが全然ないのでしょうか?

皆さんが等しく共有している「鎌倉」のイメージ、つまり切通の内側及び北鎌倉のイメージは、そこが中世の武都であったこと、中でも北条氏盛衰の歴史から誘発されている部分が大きいのではないでしょうか。

鎌倉七口の一つ「朝夷奈切通」

では切通の外側はどうか。





そこにはその義時や泰時、あるいは時頼や時宗の北条氏に仮託して姓を伊勢から北条に変えた「ネオ北条」こと「後北条氏」のイメージが確固としてあるのです。





つまり歴史的に鎌倉は、私も含めて皆さんが大好きな戦国時代の主要な舞台の一つであったのであり、すなわちそこには関わった当時の人々の悲喜交々の尽きない物語が秘められているのです。

今、鎌倉を「戦国時代の主要な舞台の一つ」といったのは、それは、あの時代の日本には政治的な中心点が二つ、つまり一つは京都であり、もう一つが鎌倉であったという意味からです。





鎌倉は鎌倉幕府の滅亡で古都になってしまったのではなく、足利尊氏らが「さて幕府を鎌倉と京都のどちらに置くべきか」の議論を戦わせた挙句、京都に決定したのにあわせて、鎌倉には「鎌倉府」を設置することにしたのであり、鎌倉府の長官「鎌倉公方」に尊氏の子の基氏をその職に任官させて東国を管轄させたのでした。

鎌倉公方を補佐したのが「関東管領」でこれは代々上杉氏が世襲しましたが、上杉氏にも、よく知られているところでは四家あり、中でも山内上杉氏と扇谷上杉氏が有力でしたが、やがて両者は実際に干戈を交えて争うようになり、且つまた公方も加わって三者三つ巴の交戦状態となるに及んで上杉氏の威力もようやく凋落して、ついにあの「越後の虎」こと長尾景虎に由緒ある関東管領職を継承させざるを得なくなる状況に至ったのでした。

「長尾」景虎がなぜ「上杉」謙信なのか。それは勿論、彼が関東管領職を引き継いだからなのであります。





ですが一方、それより前に後北条氏は公方から関東管領職を与えられていたという話がありますし、三代目北条氏康のときにはその娘を公方の妻としています。つまり公方は後北条氏の御一家として後北条氏に取り込まれる形となって、やがて後北条氏の囲みの中で自然に消滅するに至ったようです。





これらのことだけでも北条と上杉が角逐する理由があるようですが、また諸般の事情から両者は同盟を結んだりもしています。まさに「猫の目」の戦国時代ですね。

後北条氏のごく簡単な紹介

後北条氏の初代はあの恐ろしい才覚の持ち主であった伊勢宗瑞です。彼は今の岡山県の出で、室町幕府のある職につき、それから彼の姉が駿河の今川氏に嫁いだ関係などから今川氏の客将のような立場に収まり、今川氏の軍事行動の一環として伊豆へ侵攻してからは段々と今川氏から独立するの構えを見せ、やがてその影響から抜け出すと三浦氏を滅ぼして、ついに伊豆・相模の二国を領有する戦国大名へと変貌を遂げたのでした。

北条へ改姓したのは宗瑞を継いだ二代目氏綱で、彼は本拠地を伊豆の韮山から小田原へ移し、以後、ここを本城にして次代の氏康、さらに氏政と、後北条氏はその領土を拡大させ、まさしく関東の雄へと成長しました。この間、上に記したとおり、長く鎌倉公方を補佐してきた由緒ある山内と扇谷の両上杉氏は没落し、鎌倉から古河へ移った公方もまた後北条氏に吸収されていましたから、関東の地は前代の色分けから、全く後北条氏の一色によって塗り潰された形になったのでした。

鎌倉の龍寶寺にある玉縄北条氏(後北条氏)の供養塔

しかし、これまでの道のりは全然平坦なものではありませんでした。山内上杉氏から関東管領職を継承した「越後の虎」こと上杉謙信に小田原城を包囲されたことがあります。また逆に謙信と同盟を結ばざるを得ぬ展開になり、氏康の子を謙信の後継者として養子に出した(子は上杉景虎と名乗った)ものの「御館の乱」で景勝方に敗れて景虎を失うという不運にも見舞われました。それから、いわゆる甲相駿三国同盟を結んだ武田氏に一方的に同盟を破棄されたこともあります。武田勝頼の代で北条氏は武田氏に対してすこぶる劣勢に立たされ、打開するため中央の織田政権に服属することもしました。





そして本能寺の変です。再び秩序は乱れて、徳川氏と同盟を結びました。これにより、家康の娘が氏政の嫡男氏直に嫁しました。

そんなこんなで、ともかくも、氏政・氏直父子の代で北条氏は天下の大々名になりました。ですが、同じその氏政・氏直父子の代で、皆さんもご存知のとおり、豊臣秀吉に「そりゃコソ」とひねり潰されてしまったのです。

ただ、後北条氏自体は、実は完全に歴史の幕の裏側へ引っ込んでしまったのではありません。上に記したとおり、徳川家康の娘が北条氏直に嫁していたことで氏直は助命されたりなんどして、北条氏は家名存続を許され、河内国(現在の大阪府)狭山藩の藩主として江戸時代を通じて存続し得たのでした。

秀吉に氏直助命の取り成しをした徳川家康は、源頼朝の先蹤を追い征夷大将軍に任官されて、同じ関東の地に幕府を開きました。その地は鎌倉から50キロメートルほど東へ離れた江戸であり、江戸城がその政庁且つ歴代徳川将軍の居城になりました。江戸城は扇谷上杉氏の家宰太田道灌が築城したのです。その後は後北条氏の重要な支城になり、そして今は天皇陛下がお住まいになっていらっしゃるのです。

鎌倉にある唯一の戦国時代の城郭「玉縄城」

玉縄城址。玉縄行政センターのパネル写真を撮影。

伊勢宗瑞が三浦半島に拠る三浦氏を攻略するために築城したのが玉縄城で、それは現在の鎌倉市城廻の地にありました。三浦氏を新井城に滅ぼした後は、玉縄城は後北条氏の本拠小田原城の重要な支城になりました。





どう重要なのかというと、それは玉縄城が相模国・武蔵国の境目に位置する要衝であるということは勿論、上に記した「戦国時代の主要な舞台の一つ」である「鎌倉」を統治するための城でもあったからです。さらには、そもそも鎌倉北条氏に仮託して伊勢氏改め「北条」を名乗ったわけですから、鎌倉の地は後北条氏にとっては根生いの故郷にも等しい大切な場所であった、ということもありましょう。ゆえに、玉縄城は伊勢宗瑞の次男氏時を初代にして代々北条氏が城主になっていたわけです。

この玉縄城の城主の系統は「玉縄北条氏」と呼ばれていますが、同氏は本家「小田原北条氏」に対して近しい弟分という関係にあって、兄貴分である本家を軍事的にも政治的にも様々な面からサポートし続けた家でした。

玉縄北条氏の菩提寺「龍寶寺」

小田原城は豊臣秀吉によって落城しましたが、無論、時を同じくして玉縄城も豊臣方に接収されました。無血開城という形でしたが、これは玉縄城最後の城主氏勝の判断・選択によるものでした。彼のこの選択により、鎌倉は戦火を逃れたというわけです。氏勝の功績、決して低からずと言いたいです。

その後、北条氏勝は秀吉の命により徳川家康に付され、家康の上杉攻めや引き続く関ヶ原戦役に出陣しましたが、やがて病没しました。しかし、玉縄北条の名籍は引き継がれ、大名にまでとりなされて、徳川家譜代の一員として存続したということです。

龍寶寺山門

現在、残念なことに玉縄城の遺構はさほど残っていないようです。城址周辺にも、そこにかつて大規模な城郭があったという雰囲気がありません。ですが、その周りには、盛況であった往時を彷彿とさせられる事物が全くないことはありません。

一つは「龍寶寺」です。玉縄北条氏の菩提寺でした。広壮なお寺で、歴代玉縄城主の位牌や源実朝の位牌などが安置されています。曹洞宗のお寺。鎌倉市植木にあります。

龍寶寺の芍薬

もう一つは「大長寺」です。後北条氏及び徳川氏によって代々崇められてきた格式の高いお寺です。玉縄北条氏一族のものと伝えられる墓石があります。龍寶寺もそうですが、背後に山を負ったとても趣のあるお寺です。四代目の住職は、徳川家康直々の来訪も受けたそうです。浄土宗のお寺。鎌倉市岩瀬にあります。

大長寺
大長寺「宝蔵」

ほかには「圓光寺」や「玉縄首塚」などがありますが、今は割愛します。

ほかの見落とされがちな鎌倉

「源太塚」と「しのぶ塚」

源太塚

源太塚」は鎌倉市笛田の仏行寺にある塚で、梶原源太景季の片腕がそこに埋められているとのことです。仏行寺は後ろに山を控えているのですが、源太塚はその山の上のとても見晴らしの良い場所にあります。
梶原源太景季は梶原景時の嫡男で、平家物語の有名な「宇治川の先陣争い」の一方の当事者であります。

しのぶ塚

しのぶ塚」は鎌倉山にあり、源太塚と向き合うように立っているそうです。理由は信夫(しのぶ)が梶原源太景季の妻であるからで、彼女は夫景季が父景時と共に討たれたという悲報に接して自害したのであります。
源太塚が山の上の見晴らしの良い場所にあることを上に書きましたが、そこからは何物にも遮られることなく鎌倉山が望めるのであります。私も実際にそこに立ちましたが、何かじーんと来るものがありました。

「泣塔」と「青蓮寺」
泣塔」は宝篋印塔です。塔の銘に「文和5年(1356年)」とあり、年代が明らかで保存状態がよいことから国の重要美術品に指定されています。

「泣塔」。パイプに囲われた宝篋印塔がそれです。

どうして「泣塔」なのか。それはこんな逸話があるからです。昔、一時鎌倉市手広にある青蓮寺に移されたのですが、毎晩、元いた場所を恋しがってすすり泣くので戻したところ、その日からピタッと泣き止んだというのです。
この文章を書いている時点では、泣塔は写真にあるとおりの状況です。一般の方が安全に見学できるよう整備中とのことですが、私には塔のすすり泣く声が聞こえるようでした。
なお、泣塔が一時移されたという鎌倉市手広にある青蓮寺ですが、ここには鎌倉時代作の別名「鎖大師」という珍しい弘法大師坐像があります。両足の関節が、鎖のような細工によって自在に動かせるようになっているそうです。
また、天女が弘法大師に下した一粒の仏舎利を機縁に、一晩で池の面を埋め尽くさんばかりに青色の蓮華を咲かせたという美しい伝説のあるお寺でもあります。

北条早雲及び後北条氏の本

私たちが制作した下記の本の中で、後北条氏について触れています。

「鎌倉の歴史と芸術」 著者:益田寿永

以下、本の紹介の抜粋





鎌倉という街は私たちを幸福にしてくれます。そして今や、その「私たち」とは、日本人だけではなく、世界の人々がこれに該当するでしょう。 中でもこの本の著者にとっては、その人生において、鎌倉は欠くことのできない必要な街になっています。鎌倉を思うだけで元気が出てきます。





どうして元気が出るのか?





鎌倉は多面的な街です。一面に中世の歴史があり、他面にはグルメやマリンスポーツ、それに文化、芸術、そして海山の自然があります。





人々に幸福をもたらす街、元気にしてくれる街、鎌倉とは一体どんな街なのか?





本書では、「歴史」「和歌・短歌」「絵画」そして「映画」の四つのテーマから鎌倉の正体を明らかにしていきます。いずれも鎌倉に深く根を張っている重要なテーマです。





鎌倉を知ることは日本を知ることであり、それはその歴史と美しさに我が身がいつも包まれているということです。





ストレスなくお読みいただくための一助として、要所に写真を掲載しています。





大まかな目次:「鎌倉の歴史」「鎌倉の和歌・短歌」「鎌倉の絵画」「鎌倉の映画 松竹大船撮影所」

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Lab 鎌倉奥乃院 益田寿永