源実朝:山かげに差し込んだ一筋の光

源実朝の暗殺:日本史上最もミステリアスで重要な事件
源実朝は鎌倉幕府の創設者源頼朝の次男です。幼名は「千幡」、元服して「実朝」になりましたが、その名は後鳥羽上皇が命名したのでした。元服するとすぐに征夷大将軍に補任されましたが、これは彼の兄であり、前将軍頼家が鎌倉を追放されていて将軍職に欠が出ていたからでした。哀れなるかな、その頼家も翌年、伊豆の修善寺でむごたらしく暗殺されました。実朝は、まだ十五歳にもならない少年時代に実の兄の暗殺の報に接したのでした。
実朝の嫁選びですが、彼は候補に立てられた御家人(足利氏)の娘を拒絶しました。それで、京都から公家の坊門(藤原氏)信清の娘を迎えたのですが、これは頼家が殺されるに至った同様の導線を予め断ち切っておくためだったのか、それとも自身の京都文化への憧憬によるものだったのか、あるいはまた後鳥羽上皇の思惑があってのことだったのか(後鳥羽上皇は坊門信清の姉の子)、よく分かりませんが、ともかくも、実朝が頼家の同じ轍を踏むことはなかったわけなのでした。
ところで、源実朝を政治家としては暗愚であったとの評がありますが、果たしてそうだったのでしょうか?
こんな話が伝わっています。幕府で相模川の橋の修理に係る案件について討議されました。この橋は、源頼朝がその供養の式典の帰路に落馬して死亡した不吉な橋でありました。だから、今さら修理は不要であろうとの幕府重臣たちの一致した意見でした。ところが実朝は、父頼朝の崩御は武家の棟梁となってから二十年、官位を極めてからの出来事であるとし、よって橋自体とは何の関係もないことだとした上で、あの橋は二所詣(実朝が伊豆山神社と箱根神社を参詣すること)にも便利だし、庶民の往還にも益するところ大であるからと、速やかなる修復を命令したのでした。不毛な迷信に囚われない、合理的且つ鮮やかな判断を実朝は果断に下したのでした。
また彼は、道の端で父母を亡くして泣いている子供に同情し、獣でさえ親が子を思うその気持ちを哀れがり、またあまりの多雨に民衆が愁嘆しているからと天の龍王にいい加減止めるように要請している、そんな内容の歌を詠んでいるのです。そういう目が実朝には備わっているのでした。

果たして実朝は本当に暗愚な政治家だったのでしょうか?
実朝がとくに昵懇だった人、それは一人は和田義盛、もう一人は栄西禅師といえるでしょう。
いわゆる「和田合戦」は実朝にとっては後味の悪い痛恨の出来事でした。だから戦後も実朝は義盛ら亡卒に悩まされ、彼らの供養のためにお経を三浦の海に沈めたりしています(経を沈めたという三浦半島の和田の海は、その名のとおり、義盛ら和田氏の領地でありました。)。この海は透明度がとても高く、今は夏になれば海水浴客たちで賑わいます。

もう一人の栄西ですが、彼は入宋二度の偉いお坊さんで、臨済宗の宗祖でもあり、鎌倉では寿福寺の開山になって、実朝とは度々法談を交わしています。実朝はこの五十歳以上も離れた人生の大先輩の話をきっと熱心に聴いたでありましょう。

私は密かに、実朝が執拗に高位高官を望んだことも、由比ヶ浜に大船を作らせて入宋を企てたことも、きっと栄西の入知恵が絡んでいるのではないかと疑っているのですが、仮にそうだったとして、その通り左右を顧みず我が意のままに行動した所以のものは、やはり彼の体内にも等しく流れている頼朝や義朝、さらに遡って八幡太郎義家に至る清和源氏の熱血であると思うのです。
実朝は決して文弱の器量の狭い人間ではなかった、と思います。
鶴岡八幡宮寺という彼の死地へ彼が至るまでの経過を見ても、そしてああいう形で殺されたことを見ても、なんだかそれはそれで、一個の英雄の死を見るような気がします。英気がなくして、どうしてあの時あの場所(鶴岡八幡宮寺)に敢然立ち入ることができたでしょうか。
昔から実朝の死には陰謀説があり、実行者はまず公暁なのでしょうが、指示役は北条義時であったり三浦義村だったりします。三浦義村だったら、その同族である和田義盛らを討たせた北条義時がターゲットになったのでしょうが、どういう経緯か、諸説あるようですが、とにかく義時はその場に不在で助かったのでした。一方首謀者が北条義時なら、これはもうターゲットは実朝ただ一人しか考えられません。

これも私が密かに思っていることですが、実朝は後鳥羽上皇を敬仰して幕府を京都の朝廷の中に組み入れようとしていたようにも伺えますし、義時は義時で、坂東に確固たる武士のための武士による政権を樹立しなければならないという使命を負っていたように見えます。つまり鎌倉幕府には理念を全然別にする二人の首脳が同居していたわけですが、もし首謀者が義時だとすると、造物は実朝を負かして義時を勝たせたのでした。

実朝没後、間も無くして承久の乱が起きましたが、この時も造物は義時を勝たせ、後鳥羽上皇には隠岐島へ赴かせて、ついに帰洛を許さなかったのでした。以来、明治維新まで、長い間日本には朝廷と幕府という二つのレイヤーがいずれも透過して合わさったようなちょっと面白いお国柄になっていたのでした。
もし実朝がもっと生きていれば、以後日本には政治的な中心点が二点(京都と鎌倉あるいは江戸)並列したようなことにはならなかったかもしれない、という想像はうがち過ぎでしょうか。
突然変異的の天才歌人:源実朝

鎌倉文学館には広大な美しい庭園がありますが、そこにいくつかあるガーデンライトには鎌倉に縁ある和歌・短歌が書かれていて実朝のものもありますが、正岡子規のそれには次の歌が書かれています。
「人丸ののちの歌よみは誰かあらん征夷大将軍みなもとの実朝」
正岡子規は実朝を高く評価した歌人として有名ですが、私は個人的には「人丸ののちの歌よみ」としてもう一人、実朝の少し前の人西行も入れたいと思います。松尾芭蕉は人から問われて、言下に「西行と鎌倉右大臣(実朝)」と答えたそうでありますが、さすがは芭蕉であると言いたいです。
西行と実朝の歌は似ていると思います。なぜなら、二人は歌のための歌は作らず、つまり京都歌壇とは趣を異にして、実際に目にした景物その他から誘発された感動をそのまま素直に三十一文字に表した歌人であったからです。すなわち真心の歌人という点で二人は共通していると思うのです。
勿論、彼らの作った歌の全部が全部秀歌だったわけではなく、月並みの凡庸な歌も少なくありません。実朝の金槐和歌集にも月並みな歌が多く収録されています。でも中に交じって、そこに目も覚めるような非凡の歌が散りばめられています。
歌は人でありましょう。リアリストの恐ろしい黒衣の塊の中に差し込んだ、一筋の冬の淡い光にも似た孤独な実朝の境涯が、彼の歌の一つの重要な条件になっていることは間違いないでしょう。後鳥羽上皇が隠岐島の悲境に立ち入られて、その歌がさらに深みを加えていったように。

実朝は孤独でしたが、卑屈ではありませんでした。たとえば、彼が二所詣(実朝が伊豆山神社と箱根神社を参詣すること)から鎌倉へ帰ってきた翌朝、誰も自分のところへ伺候する者がなく、それをそれぞれに私の用事があるからなのだろうと、嘆くのでもなく怒っているのでもない歌があります。この歌なんかは、実朝のいる境地をよく表していると思うのです。
「色即是空」のみならず「空即是色」の両方を体得している人、と私は思います。円満の境地にいて、つまらぬことで笑ったり泣いたりはしないのです。だから、上に記したように、父母を亡くした子供を見れば率直に悲しみ、民衆の上を思いやり、その優しい観察の目は動物にまで向けられたのだと思います。あの時代の人としては実に稀有な人物であると思います。
金槐和歌集の一番最後の歌は、あの有名は後鳥羽上皇をオマージュした歌なのであります。あの歌もまた、実朝の円満な真心から率直に歌われたものだと思います。

道半ばで公暁の凶刃に倒れたこと、実朝はさぞや悔しかったことでしょう。また後代の私たちにとっても非常に悔やまれるところであります。歴史にifはナンセンスですが、もし彼がせめてあと十年も生きてくれれば、歴史という大舞台で実朝はまたどんな良い役回りを造物から受け取ったか計り知れないのであります。
二十代の若さで、道半ばで倒れた気の毒な実朝でしたが、それでも彼をこの世に送ってくれた造物には感謝したいと思います。なぜなら、もし実朝が歴史上に存在しなかったら、今の鎌倉の魅力は半減するどころではないからです。
鎌倉の歴史や芸術にかかる詳しい本の紹介
私たちLab 鎌倉奥乃院が制作した下記の本では、和歌・短歌の歴史や鎌倉にゆかりがある歌人を詳しく紹介しています。
「鎌倉の歴史と芸術」 著者:益田寿永
以下、本の紹介の抜粋
鎌倉という街は私たちを幸福にしてくれます。そして今や、その「私たち」とは、日本人だけではなく、世界の人々がこれに該当するでしょう。 中でもこの本の著者にとっては、その人生において、鎌倉は欠くことのできない必要な街になっています。鎌倉を思うだけで元気が出てきます。
どうして元気が出るのか?
鎌倉は多面的な街です。一面に中世の歴史があり、他面にはグルメやマリンスポーツ、それに文化、芸術、そして海山の自然があります。
人々に幸福をもたらす街、元気にしてくれる街、鎌倉とは一体どんな街なのか?
本書では、「歴史」「和歌・短歌」「絵画」そして「映画」の四つのテーマから鎌倉の正体を明らかにしていきます。いずれも鎌倉に深く根を張っている重要なテーマです。
鎌倉を知ることは日本を知ることであり、それはその歴史と美しさに我が身がいつも包まれているということです。
ストレスなくお読みいただくための一助として、要所に写真を掲載しています。
大まかな目次:「鎌倉の歴史」「鎌倉の和歌・短歌」「鎌倉の絵画」「鎌倉の映画 松竹大船撮影所」
購入を検討される方は下のボタンを押してください。
Lab 鎌倉奥乃院 益田 寿永


