鎌倉の奥座敷

毛利氏のルーツ大江広元

大江広元の墓

鎌倉の奥座敷十二所の町には、かつて源頼朝のブレーンであり右腕であった大江広元の屋敷がありました。





上の写真は、同じ十二所にある明王院の裏山にある大江広元のものとされる墓です。

十二所には大江広元の屋敷について説明している史跡導標が立っています。上の画像のものです。これを読むと、大江広元は戦国時代の大大名毛利氏の先祖であることが分かります。大江氏は相模国の毛利荘を賜り、そしてその地名を名字にして、どういう経緯か私には分かりませんが、とにかく今の広島県の山間部へと居を移し、元就の代で隣接する高橋氏を下し、これを転機として尼子氏を屠り、石見銀山を手中にして中国地方の覇者になったのでした。毛利氏の栄光はここにとどまらず、明治維新から以後、日本の近代化においても立派な立役者になっています。





そんな毛利氏のルーツがここ十二所に住んでいた大江広元にあるのです。

毛利氏の居城 広島県の郡山城址 鹿が住んでいる。

鎌倉の奥座敷 十二所

十二所は山に囲まれた自然の豊かなエリアです。蛍が飛び、ホトトギスが鳴き、フクロウも鳴き、そして鷹が飛翔しています。そんな山間には古いお寺や神社がひっそりと佇んでいます。中でも鎌倉の奥寺、光触寺は見どころの多い寺です。

光触寺 本堂

光触寺の寺宝を列挙します。





定朝作という聖観音菩薩像、頬焼阿弥陀像、頬焼阿弥陀縁起(絵巻物)、源実朝が建立した大慈寺に安置されていたという仏像の仏頭(かなり大きなもの)、第4代鎌倉公方にして永享の乱の立役者足利持氏が奉納したという厨子、後醍醐帝の勅額、それから塩嘗地蔵。





国の重要文化財になっているものもあります。





なお、上の源実朝が建立した大慈寺というのは、同じ十二所にかつてあった寺院で、かなり大きなものだったそうです。今はその遺構が全くありません。ただ史跡導標が立っているだけです。

これらのうち、頬焼阿弥陀像と塩嘗地蔵にはユニークな伝説が纏わっています。身代わりに焼きごてを押され、その頬にこての痕が認められるというのが頬焼阿弥陀像(「頬焼阿弥陀縁起(絵巻物)」はこの伝説を記したもの)、御前にお供えした塩がいつもなくなっているというのが塩嘗地蔵です。塩嘗地蔵については、光触寺のあるこの場所は昔の六浦路(現在、金沢街道)沿いに当たり、往時、塩が金沢方面から流入してきたことを示すものだということです。 

光触寺の拝観は事前予約が必要です。 

鎌倉の観光ブックの紹介

私たちLab 鎌倉奥乃院が制作した鎌倉の観光ブックを以下に紹介します。





よろしかったらチェックしてみてください。

「鎌倉の鍵」 著者:遠田寿

以下、本の紹介の抜粋





鎌倉の街は緑の小箱。鍵をさして蓋を開けてみよう! そこにはたくさんの物語が詰まっています。





本書は鎌倉の初級編。それでも鎌倉の多面的、あるいはモザイク的全貌は示されています。さらに一歩踏み込んだガイドブックです。





写真をなるべく多く掲載し、ストレスなくご覧いただけるよう配慮しています。





目次:1 中世、2 境界地点、3 頼朝、4 実朝、5 大仏、6 作家、7 阿仏尼、8 Ozu、9 女優、10 海、11 江の島、12 庭

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「鎌倉の歴史と芸術」 著者:益田寿永

以下、本の紹介の抜粋





鎌倉という街は私たちを幸福にしてくれます。そして今や、その「私たち」とは、日本人だけではなく、世界の人々がこれに該当するでしょう。 中でもこの本の著者にとっては、その人生において、鎌倉は欠くことのできない必要な街になっています。鎌倉を思うだけで元気が出てきます。





どうして元気が出るのか?





鎌倉は多面的な街です。一面に中世の歴史があり、他面にはグルメやマリンスポーツ、それに文化、芸術、そして海山の自然があります。





人々に幸福をもたらす街、元気にしてくれる街、鎌倉とは一体どんな街なのか?





本書では、「歴史」「和歌・短歌」「絵画」そして「映画」の四つのテーマから鎌倉の正体を明らかにしていきます。いずれも鎌倉に深く根を張っている重要なテーマです。





鎌倉を知ることは日本を知ることであり、それはその歴史と美しさに我が身がいつも包まれているということです。





ストレスなくお読みいただくための一助として、要所に写真を掲載しています。





大まかな目次:「鎌倉の歴史」「鎌倉の和歌・短歌」「鎌倉の絵画」「鎌倉の映画 松竹大船撮影所」

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Lab 鎌倉奥乃院 代表 益田寿永