地上の月、不羈なる歌人西行
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「西行論」野口米次郎 著
西行は出家前、佐藤義清という名の武士でした。あの俵藤太こと藤原秀郷の子孫ですから、ただの武士ではありません。名門です。ところが義清は約束された将来をかなぐり捨てて、一転、一笠一杖のわびしい生活に入りました。しかも23歳という若さで。
その勇気は凄いというほかありません。当時、佐藤義清のように禁闕に近侍していたような人には、「出家」は今日の私たちよりはずっと身近な選択としてあったでしょうし、また義清には親友の頓死という無常の風に直面するエピソードがあったにしても、「やりたい」と思っていることと、実際にそのとおり「行動する」こととの間には高い障壁があるのだから、やはり義清の知行合一は凄いというほかないのです。
また、西行は当時としては大分長生きしましたが、その生涯には、「保元の乱」「平治の乱」「源平合戦」「奥州合戦」がまるまる収まっています。そして、これらの戦争において、西行は大体敗者の側に縁故を有していて、中でも有名なのは待賢門院や崇徳院等と親しくしていたエピソードです。上田秋成の「雨月物語」で有名ですが、西行は当時の情勢を憚って誰一人やって来ない崇徳院の墓参をしています。義理に厚い西行でしたが、この辺りは西行が元武士であったその気魂によるものかもしれません。

これは全くの私見ですが、有名な西行と源頼朝の鎌倉での会見、つらつら惟るに、あの会見には義経等の助命嘆願の目的が西行の側にあったのではないか。それが不首尾に終わったので、折角の頼朝の引出物である銀の猫を憤慨して「えい」と子供にくれてしまったのではないか。
会見の後、西行の同族であり義経の郎党である佐藤忠信、そして同じく同族の奥州藤原氏はそこへ逃げ込んだ義経と共に頼朝によって滅ぼされています。
単身、頼朝に会いに行ったのなども、元武士であったその義侠心がなしたワザではなかったでしょうか。
歴史上の人物で、今日を生きる私に指針を示してくれる人は少ないですが、自由の何たるかを存分に知り尽くして天寿を全うし、終わりをよくした西行は、私に勇気やその他諸々を与えてくれました。
ところで、ここにもう一人、偉人を挙げたいと思います。
それは野口米次郎という人物です。
明治という時代にアメリカへ渡航し、そこで長く暮らして、洋の東西の文化に深く精通した人物です。
ちなみに、あのイサム・ノグチのお父さんでもあります。
野口米次郎は詩人でもあるのですが、彼の数ある著作の中には次の西行について書かれたものがあります。名著です。
西行論 野口米次郎 著
この本は電子書籍(ペーパーバックという紙の書籍もあります)になっています。
ほんのわずか抜粋します。
「月は樹木の挨拶にも答ヘずにさっさと上ってゆく。山にも丘にも月を捕へる力がない。雲でも月にかかるとするりと逃げられて仕舞ふ。・・・略・・・現実世界をするりと逃れて詩歌の法悦に遊ぶ西行は確かに地上の月だ。」
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鴫立庵
神奈川県の大磯町に「鴫立庵」はあります。松並木の東海道に面し、正月二日三日の箱根駅伝のコースに当たっていますが、そんな賑わいをよそにここは静寂を極めています。
行くと茅葺の建物たちが私たちを迎えてくれます。
すぐ裏は海で、ここで西行の屈指の名歌、「鴫立つ沢」の歌が詠まれたのだそうです。

「円位堂」という茅葺のお堂の中に西行坐像が安置されています。
お堂は元禄年間のものだそうですが、玉眼入りの坐像の方の制作年代ははっきりしておらず、室町時代以前にまでさかのぼるとの説もあるそうです。

ともかく、西行のお顔は凛々しいです。流浪の歌人として相応しいと思います。また、その片足を上げ、両手で膝を抱えたポーズをとらせた制作者の非凡の才も感じられます。

なお、鴫立庵には虎御前の坐像もあります。この木造は、仇討ち物語として有名な「曽我物語」の主人公曽我十郎の恋人虎女の十九歳の姿を写したものだそうです。

Lab 鎌倉奥乃院 益田 寿永



