戦国時代開幕の地、鎌倉と古河
日本の戦国時代はいつどこで始まったのか?

戦国時代は応仁の乱で始まったとするのが一般的ですが、実は諸説あり、「享徳の乱」をそれに当てる説も有力です。
実に享徳の乱は応仁の乱に先立つこと10年以上も前に勃発しているので、この説が正しいとすると、関東は関西よりも先行して戦国時代へ突入したことになります。
「享徳の乱」は関東管領上杉憲実の子憲忠を鎌倉公方足利成氏が鎌倉で殺害したことをきっかけに勃発するのですが、なぜ憲忠が殺されねばならなかったのかというと、それはそれよりも前に鎌倉で起こった「永享の乱」で足利成氏の父足利持氏が殺されたのですが、成氏はそれを上杉憲実のせいだとしたからでした。だから、成氏はせめて憲実の子憲忠を殺して鬱憤を晴らしたわけなのでしょう。
室町時代は、初代の足利尊氏が幕府を鎌倉にではなく京都に置き、鎌倉には鎌倉府を設置したことを原因として、一面、幕府と鎌倉府の相剋の時代という見方ができると思いますが、第四代鎌倉公方持氏の代になり、とうとう京側と鎌倉府は実際に干戈を交えるに至ったのでした。
鎌倉公方の足利持氏を補佐すべき関東管領上杉憲実は、京都の幕府と持氏の間に立って大変に苦労したようで、結果的には持氏を攻めてこれを殺しましたが、好き好んでそうしたようには見られないのです。
上杉憲実。この人もひとかどの人物であったようで、あの足利学校を再興した人物として知られています。彼は実子憲忠を殺されたあと、関東の騒乱を避けて九州へ赴き、大内教弘を頼んで隠居し、仏道を修して余生を送りました。そして文正元年(1466)に後年の大内氏滅亡の地、山口県大寧寺で死亡したそうです。

さて、上杉憲実の子憲忠を殺害した第五代鎌倉公方足利成氏は、幕府に支援された憲忠の弟房顕及び援軍今川範忠に攻め込まれて鎌倉を出て古河(茨城県)へ拠点を移しました。成氏は鎌倉公方ではなくなり、この時から「古河公方」を称することになるのです。成氏が古河へ移ってから関東は混乱を極めていき、いよいよ戦国時代へと突入していくのです。
なお、古河公方は成氏を初代とし五代義氏まで約130年存続しました。成氏の古河移転により古河には鎌倉の文化が移植され、そこは「第二の鎌倉」ともいうべき繁栄を遂げ、現在でも古河市域には鎌倉ゆかりの寺社が多く残っていたりします。

ところで、日本最初の戦国大名は誰かというと、それは北条早雲こと伊勢宗瑞であることは一般に認知されていることと思います。
北条早雲は伊豆で兵を挙げて鎌倉を手中にし、三浦半島の名族三浦氏を半島の南端に追い詰めてこれを滅亡させ、伊豆国・相模国を平定したのですが、この早雲が最初の戦国大名であるということに私は注目したいのであります。彼が最初の戦国大名ならば、戦国時代はまず関東で幕を開けたということを示唆することになりはしないでしょうか。つまり、戦国時代は「享徳の乱」あるいは「永享の乱」に端を発し、北条早雲という戦国大名の誕生により以後、関東は全国に先駆けて完全に戦国の時代へと移り替わったのではないかと。北条早雲が行った仕事というものは、鎌倉で起きた「永享の乱」以後一連の騒乱・問題に一つの大きな解を与えたということでありましょう。
ですが、上の説はあくまでも仮説です。疑問点があるにはあるのです。

上の画像は鎌倉市と逗子市の市境付近にある住吉城址です。北条早雲はここに拠る三浦勢を攻めたそうです(諸説あり)。往時は画像の通り海に囲まれていましたが、現在は画像にある海の部分は埋め立てられています。
下の画像は同じく三浦氏の居城で、住吉城同様に海に囲まれたロマンある城です。
ロマンと書きましたが、私は往古を思い、城の中にいて潮騒が聞こえるという想像にロマンを感じてしまいます。

鎌倉で起きた「享徳の乱」、享徳の乱を起こした鎌倉公方足利成氏、彼は古河へ移って古河公方になる。そして古河には鎌倉の文化が移植され、古河公方五代約130年間、古河は関東の一大政治都市になったのでした。
享徳の乱が我が国戦国時代の幕開けなら、その始まりの地は鎌倉あるいは古河といってもいいのかもしれません。
鎌倉市と古河市にゆかりのある偉大な作家 永井路子
永井路子さんは言わずと知れた歴史小説の大家ですが、この方が鎌倉市と古河市の双方の名誉市民になっていることに私は非常な興味を持ちます。そして、このことをきっかけにして、鎌倉市と古河市が「文化・観光交流協定」を結んだことに大変な喜びを感じます。
歴史は連環していきます。往古の英雄たち、彼らはまた永井路子さんとも繋がっているのでありましょう。そして私たちは永井さんの作品を通して、どこかで彼ら英雄たちと繋がることができるのかもしれません。
下の画像は永井路子さんの旧宅です。永井さんはここで3歳から20歳まで暮らしたそうです。

Lab 鎌倉奥乃院 益田 寿永


